(参考訳1)中村元・紀野一義 般若心経・金剛般若経 (1960). 岩波書店
1 求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
2 シャーリプトラよ、この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
3 (このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
4 シャーリプトラよ、この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
5 それゆえに、シャーリプトラよ、実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、識別もない。眼もなく、耳もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。(さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。
6 それ故に、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平和に入っているのである。
7 過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめを覚り得られた。
8 それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。
9 ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸いあれ。)ここに、智慧の完成の心を終る。
(参考訳2)宮坂宥洪 新釈般若心経 (2004). 角川文庫
1 高貴なる観自在菩薩が深遠な般若波羅蜜多の修行を実践しているとき、五蘊あり、しかも、それらは自性空であると見極めた。
2 シャーリプトラよ、ここにおいて、色は空性であり、空性は色である。色とは別に空性はなく、空性とは別に色はない。
3 色なるものこそが空性であり、空性なるものこそが識である。受・想・行・識についてもまったく同様である。
4 シャーリプトラよ。ここにおいて、存在するものはすべて空性を特徴としていて、生じたというものでなく、滅したというものでなく、汚れたものでなく、汚れを離れたものでもなく、足りなくなることなく、満たされることもない。
5 この故に、シャーリプトラよ、空性においては、色なく、受なく、想なく、行なく、識もない。眼耳鼻舌身意もない。色声香味触法もない。眼界から意識界に至るまで悉くない。明知なく、無明なく、明知の滅なく、無明の滅もない。老死なく、老死の滅もない。苦・集・滅・道もない。知ることもなく、得ということもない。
6 この故に、ここにはいかなるものもないから、菩薩は般若波羅蜜多を拠り所として、心に妨げなく安住している。心の妨げがないので、恐れがなく、ないものをあると考えるような見方を超越していて、まったく開放された境地でいる。
7 過去・現在・未来の三世に出現するすべての仏は般若波羅蜜多を拠り所として、無上の完全なさとりを成就している。
8 それゆえに知るべきである。般若波羅蜜多の大いなるマントラ、大いなる明知のマントラ、この上ないマントラ、比類なきマントラは、すべての苦を鎮めるものであり、偽りがないから、真実である。般若波羅蜜多の修行で誦えるマントラは、次の通りである。
9 ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー。以上で、般若波羅蜜多のマントラ、提示し終わる。
(参考訳3)長澤弘隆 般若心経梵文和訳ノート エンサイクロメディア空海
http://www.mikkyo21f.gr.jp/academy/post-178.html
1 深い(集中の)般若波羅蜜多において、行を実践している、尊き観自在菩薩は、(次のように)観察した。(事物はすべて、例えば私の身体は)五つの(ものの)集まり(五蘊)である、と。そして、それ(ら)は、本性が空なるものである、と見抜いた。
2 さて(そのように)、シャーリプトラよ、(事物の)形象(色)は空性であり、空性だからこそ(事物の)形象(色)(たり得ているの)である。(事物の)形象(色)から離れて空性があるのではなく、空性から離れて(事物の)形象(色)があるのではない。
3 (事物の)形象(色)というもの、それが空性であり、空性というもの、それが(事物の)形象(色)なのである。同様に、感受作用(受)も、思惟(想)も、潜在意識(行)も、識別(識)も(そうである)。
4 さて(そのように)、シャーリプトラよ、すべての事物(一切法)は空性を特色(相)としている。生じるのでもなく(不生)、滅するのでもなく(不滅)、垢れているのでもなく(不垢)、無垢なのでもなく(不浄)、減るのでもなく(不減)、満ちるのでもない(不増)。
5 その故に、シャーリプトラよ、空性においては、(事物の)形象(色)もなく、感受作用(受)もなく、思惟(想)もなく、潜在意識(行)もなく、識別(識)もない。眼も耳も鼻も舌も身体も意(こころ)もなく、形(色)も声も香りも味も触れられるべきもの(触)も認識対象(法)もない。眼の世界(眼界)もなく、意(こころ)による識別の世界(意識界)に至るまでない。明知(明)もなく、明知のないこと(無明)もなく、明知(明)が滅することもなく、明知のないこと(無明)が滅することもない。老いること(老)も死ぬこと(死)もなく、老いること(老)や死ぬこと(死)が滅することもない、に至るまで(そうなのである)。苦(苦諦)も集(集諦)も滅(滅諦)も道(道諦)もなく、仏智(智)もなく、得ること(得)もない。
6 このように、得ることもないことからして、諸菩薩の般若波羅蜜多に依って(心の覆いを)取り去り、心の覆いのないもの(無罣礙)となる。心の覆いがないこと(無罣礙)からして、恐怖のないものとなり、逆さまの考え(顛倒)を超越したものとなり、寂静の境地(涅槃)に導かれたものとなるのである。
7 三世におわすすべての仏は般若波羅蜜多に依って、無上の正等覚を現に覚ったものなのである。
8 この故に、般若波羅蜜多の大いなる真言、大いなる明知の真言、無上なる真言、比べるものなき真言が、すべての苦を除くものであると知られるべきである。真実は偽りがないことからして、般若波羅蜜多において真言が説かれた。然れば、
9 達することよ、達することよ、目的(高み=サトリ)に達することよ、目的(高み=サトリ)にともに達することよ、サトリよ、成就あれ。
(参考訳4)佐々木閑 NHK100分DE名著ブックス般若心経 (2014). NHKブックス
1 聖なる観自在菩薩が、深遠な般若波羅蜜多(智慧の完成)の行を行じながら観察なさった。五蘊があり、そしてそれらの本質が空であると見たのである。そして一切の苦しみや厄いを超えたのである。
2 舎利子よ、この世の「物質要素」(色)は「実体がないという状態」(空性)であり、「実体がないという状態」が「物質要素である」(この一文は、サンスクリット原典にはあるが漢文には存在しない)。「物質要素」(色)は「実体がないという状態」(空性)と別のものではなく、「実体がないという状態」は「物質要素」とは別物ではない。
3 「物質要素」(色)が「実体がないという状態」(空性)なのであり、「実体がないという状態」が物質要素なのである。[五蘊のその他の要素である]「感受作用」(受)、「構想作用」(想)、「意思作用およびその他の様々な心の作用」(行)、「認識作用」(識)についても、「物質要素」(色)と全く同じことが言える。
4 舎利子よ、この世のすべての基本的存在要素(法)の特性は、「実体がないという状態」である。これらは起こってくることもなく、生滅することもない。汚れることもなく、清らかになることもない。減ることもなく、一杯になることもない。
5 それゆえに、「実体がないという状態」(空)においては、「物質要素」(色)はなく、「感受作用」(受)はなく、「構想作用」(想)はなく、「意思作用およびその他の様々な心の作用」(行)はなく、「鼻」はなく「舌」はなく、「触覚器官(身)」はなく、「意(心)」はない。「いろかたち」はなく、「音」はなく、「香り」はなく、「味」はなく、「感触」はなく、「思い浮かぶもの」はない。「眼によって起こる視覚」はなく、[「耳によって起こる聴覚」はなく、「鼻によって起こる嗅覚」はなく、「舌によって起こる有味覚」はなく、「触覚器官によって起こる触覚:はなく、]「意によって起こる意識」はない。「無明」はなく、また「無明」が尽きることもない。「老いと死」はなく、また「老いと死」が尽きることもない。「苦」「集」「滅」「道」[という「四諦」]はない。「悟りの智」もなく、[涅槃の]「獲得」もない。それゆえ舎利子よ、[涅槃の]「獲得」がないのであるから。
6 それゆえ、菩薩には「獲得というすること」がないのだから、般若波羅蜜多(の完成)に依り、心になんの妨げもなく過ごしている。心になんの妨げもないから、恐怖することがなく、倒錯した思いを超越しており、涅槃に入った人なのである。
7 過去、現在、未来におられるすべてのブッダは、般若波羅蜜多(智慧の完成)に依って、この上ない悟りを完全に悟られたのである。
8 ゆえに以下のことを理解せよ。般若波羅蜜多(智慧の完成)は大いなる真言(マントラ)であり、大いなる知力を持つ真言であり、最上の真言であり、比類なき真言であり、一切の苦しみを鎮める真言であり、ウソいつわりがないから、真言なのである。般若波羅蜜多(智慧の完成)において、真言が説かれた、それは以下の如し。
9 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶(ガテー ガテー パーラーガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー)(行った者よ、行った者よ、彼岸に行った者よ、向かい岸へと完全に行った者よ、悟りよ、幸いあれ)以上、『般若波羅蜜多心』が終わった。