Ayat-Origami

1-3 現代版 般若心経

いうまでもなく、般若心経は大乗仏教の経典です。大乗仏教とは、釈迦が入滅してから約500年くらい後にインド北西部で興った新しい仏教運動で、それまでの仏教(部派仏教)の思想と大きく対立するものでした。
般若心経の難解さは、諸法(=ダルマ)に固定的な実体(=自性)を認める部派仏教(=小乗仏教)に対して、いかなるものにも固定的な実体は存在しない(=無自性)と主張した大乗仏教としての、その立ち位置にあります。わずか262文字の般若心経に21回も出現する「無」によって否定されている「無いもの」とは、まさに、部派仏教が「有る」と主張したこの「固定的な実体(=自性)」のことです。
それまで、釈迦の正当な継承者を自認していた部派仏教徒たちにとって、大乗を名乗る新興仏教徒から突然、「あらゆるものに自性はない」と言明されたことは、大きな驚きだったに違いありません。ところが、現代に生きる私たちにとっては、「自性がある」とか「ない」とかいわれても、全くもってピンと来ません。
そこで、般若心経によって当時のインドの人々が感じたような新鮮な驚きを、現代に生きる私たちが少しでも感じることができるように、「もし、観音さまが現代に生まれ変わられて、現代の私たちに新たに般若心経を説かれるとしたら、このようなものになるのではなかろうか」という仮定のもと、まさに、新たな『現代版 般若心経』を構想してみました。


■ 現代版 般若心経

観音さまがおっしゃいました
この世には
太陽もない
月もない
地球もない
銀河もない
宇宙もない
また
水もない
酸素もない
水素もない
原子もない
素粒子もない
私たちがあると思っているものはすべて
自分の眼や耳や鼻や舌や体や心で
見たもの
聞いたもの
嗅いだもの
味わったもの
触れたもの
感じたものが
意識の中で言葉と結びつくことによって
その都度 つくられているものなのです
つまり 私たちが見る見ないにかかわらず始めから
「ある」と思われているどんな事物であっても
結局は 私たちの認識行為を通じてしかその存在を
確認できないのです
だとすれば それらの認識行為の主体となる「自分」だけが
「ある」ということなのでしょうか
いや そうではありません


シャーリプトラよ
眼は自分でしょうか
耳は自分でしょうか
鼻は自分でしょうか
舌は自分でしょうか
体は自分でしょうか
心は自分でしょうか
私たちは、こういう言い方をします
これは「自分の」眼です
これは「自分の」耳です
これは「自分の」鼻です
これは「自分の」舌です
これは「自分の」体です
これは「自分の」心です
つまり 眼や耳や鼻や舌や体や心は
自分に「属して」いるものであって
自分「そのもの」ではありません
自分そのものを
実体としてどこかに見つけることはできません
自分さえも
どこかに独立して存在しているわけではないのです
例えば 見るという行為に依って
見られる主体が存在しているのです
逆に 見られる主体に依って
見るという行為がはたらいているのです
すべてのものごとは
これが有るときかれが有り
これが生じることからかれが生じ
これが無いときかれが無く
これが滅することからかれが滅する
という相互に依存しあう
無限の相関関係をなして存在しているのです
何ら 他のものと無関係に
独立して存在しているものではありません
すべては空なのです


シャーリプトラよ
苦しみとは 自分の思うがままにならないことをいいます
この世のいかなるものも
永遠に存在し続けるものではなく
すべては移りゆき
変化していくものです
したがって いかなるものも
自分のものであるとか
自分の思い通りになるとか
そのようにみなしてはなりません
つまり 自分のものにしたい
自分の思い通りにしたい
というような観念が滅びたときにはじめて
この世のあらゆる執着はとどめられ
煩悩の種子は滅び
煩悩の種子が滅するが故に
誤った考えから脱し
ものごとの真相を見ることができるのです
人は 常住不変なる実体を求め
いつまでも解決できない形而上学的な論争を行っているがために
それぞれの見解に固執し
お互いに異なった執見を抱き
結局は真理を見失っているのです
そうではなくて 人は
個人的な執着や偏見にとらわれることなく
自己に固執する見解を打ち破って
心を浄め
わが身にひき比べ
自己を頼りとし
いまこの瞬間のうちに
真の人間の生きる道を求めるべきなのです
極端で一方的な考えを排し
時代や場所や民族の差を超えて
いかなる時 いかなる所
いかなる人によっても実践されるべき
永遠の理法を求めるべきなのです
そして このような行為は
自分以外の存在と
相互に依存しあう関係において成立するものですから
自分以外のすべての生き物に対して
慈悲の精神をもって実践すべきなのです
慈悲とは 生類を慈しみ悲しみを共に分かち合うことです


この故に 菩薩たちは
般若波羅蜜多を拠り所として
心に何の覆いもなく 何の妨げもなく 何の恐怖もない
まったく開放された境地に到達しているのです
そこには もはや心と呼ぶべきものも無く
自在に観ずるのみの
ニルヴァーナの境地が広がっているのです
ニルヴァーナとは
どこか遠いところに存在しているのではありません
私たちの現実の生活を離れたところに
ニルヴァーナという別の世界が存在しているのではありません
相互に相依って起こる諸事象が生滅変遷する姿を
凡夫の立場から見た場合にそれを輪廻と呼び
同じ事象を解脱した立場から見た境地がニルヴァーナといわれるものです
私たちは日々の迷いから抜け出し
ニルヴァーナの彼岸に渡りたいと思っていますが
ニルヴァーナという実体が
どこか別のところに有るわけではありません
ニルヴァーナに憧れるということ自体が
すでに迷いであり、苦しみなのです
生死往来する状態が輪廻であり
一方で その本来の姿がニルヴァーナなのです
輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく
ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もありません


過去・現在・未来の三世に出現するすべての仏は
般若波羅蜜多を拠り所として
この上ない 完全な、無上の悟りを得ているのです
いかなる世に出現する仏も
仏が仏であるゆえんは
ひとえに般若波羅蜜多に依るのです


故に 知るべきです
般若波羅蜜多とは
悟りへの階梯を明らかにした修行法であり
般若波羅蜜多の比類なき真言を誦える瞑想法なのです
一切の苦を除き
確実に悟りに近づくための
まったく偽りのない真言なのです


それでは、いまから
般若波羅蜜多の真言を説きましょう
ガーテーガーテー
ハーラーガーテー
ハラソーガーテー
ボージーソワカー
母なる般若波羅蜜多よ
どうか私たちに悟りをもたらし給え