Ayat-Origami

1-4 自性とは何か(前編)

仏教における空(くう、梵: sunyata:シューニャター、巴: sunnata:スンニャター)とは、固定的実体、もしくはアートマン(我)のないことや、実体性を欠いていることを意味する。[Wikipedia]

空とは、一言で言うと、ものに自性(じしょう)が欠如していることです。
それでは、「自性」とは、何でしょうか?
自性とは、サンスクリット原典で「スヴァバーヴァ」といいます。スヴァバーヴァの漢訳が自性なのです。スヴァは「自分」、バーヴァは「存在」という意味で、スヴァバーヴァとは、「自分として存在すること」という意味です。「それ(自分)がそれ(自分)そのものであること」ということです。
例えば、「その花は庭に咲いている花と同じ花だ」と言うときに、その花と別の花とを同じ種類の花だと認識するための根拠となっているあり方のことです。或いは、「その花は昨日私が摘んだ花だ」と言うときに、その花と昨日の花とが同一のものだと認識するための根拠となっているあり方のことです。いずれも、「同一性」と言ってもいいかもしれません。
AがA自身であること、或いは、Aが常に同じAであり続けていること、その根拠となるあり方が、スヴァバーヴァなのです。つまり、《常にそれをそれであり続けさせているもの》が、スヴァバーヴァなのです。

そもそも、世界をあるがままに見ることによって、宇宙の源である梵(ブラフマン)と個体原理である我(アートマン)を発見したのは、インドのウパニシャットの哲人たちでした。これに真っ向から異を唱えたのが、悟りを開いた釈迦でした。釈迦はこの世の無常を説き、無我を主張し、我(アートマン)の存在を否定しました。その後、釈迦の入滅から数百年の間に仏教教団はいくつもの部派に分裂しました。これら部派仏教のなかでも最有力だったのが、説一切有部(せついっさいうぶ)といわれる部派でした。
部派教団の多くは、釈迦の教えに従い、諸行無常を説き、我(アートマン)を否定する一方で、独自に法(ダルマ)の実有を主張しました。特に強く法の実有を説いたのが、説一切有部でした。法(ダルマ)を精緻に分解してみせることによって苦を滅し、涅槃に至る道を示そうとした説一切有部にとって、世界の真理を言葉で説明することは、どうしても必要なことでした。そのために、釈迦の教えから一歩踏み込んで、スヴァバーヴァ《常にそれをそれであり続けさせているもの》を前提にすることによって、世界を法(ダルマ)の観点から体系的に説明づけたのでした。
説一切有部は、アートマンのような実体を認めず、一切の存在は刹那刹那に生滅変遷すると説きましたが、その一方で、法(ダルマ)とは自然的存在を可能ならしめているあり方であり、諸行無常を諸行無常たらしめている無常ならざるもの(=スヴァバーヴァ)を想定することによって、この世の無常を説明しました。思えば、これは、しごくまっとうな考え方です。この世の真理を何らかのルールで説明しようとした場合、無常なる存在を無常ならしめている、より高次の原理があるのではないか、と考えるのはごく自然の流れであり、現代の私たちにとってもまったく違和感はありません。説一切有部は、さらに、「諸行は無常である」という命題自体も、変化しない真理(=スヴァバーヴァ)といえるのではないか、と考えたのだと思われます。このような高次のあり方そのものが、法(ダルマ)の領域で「もの」として有る(=実有)、自性として存在する、とされたのです。
大乗仏教が批判の対象としたのは、まさに、この点でした。釈迦が説いた諸行無常の世界をより体系的に説明するために説一切有部が拡大解釈してしまったわずかこの一点に対して、大乗仏教徒たちは、痛烈な批判を加えたのです。
無色無受想行識(五蘊の中に自性は存在しない)
無眼耳鼻舌身意(六根の中に自性は存在しない)
無色声香味触法(十二処の中に自性は存在しない)
無眼界乃至無意識界(十八界の中に自性は存在しない)
無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽(十二縁起の中に自性は存在しない)
無苦集滅道(四諦の中に自性は存在しない)
無智亦無得(智や得の中に自性は存在しない)
そうであるならば、なぜにこの世は諸行無常といえるのか。
大乗仏教が提示した答えは、実に驚愕すべきものでした。