1-5 自性とは何か(後編)
自性(スヴァバーヴァ)とは、《常にそれをそれであり続けさせているもの》ということです。
以下、これをキーワードにして、「自性(じしょう)を欠いている」とはどういうことなのか、考えてみたいと思います。
大乗仏教が主張していることは、『縁(きっかけ)となって起こるものは自性《常にそれをそれであり続けさせているもの》を持たない(自性を欠いている)』ということです。
「蒔かぬ種は生えぬ」ということわざがありますが、スイカの種を蒔けば、スイカの芽が生えてきます。種を蒔かなければ、芽が生えてくることはありません。私たちは、スイカの種が縁(きっかけ)となって、その結果、スイカの芽が生えてくる、と考えています。ところが、大乗仏教徒に言わせれば、縁(きっかけ)となるスイカの種は自性《常にそれをそれであり続けさせているもの》を持たない、ということになります。
以下、順を追って説明します。
もし、スイカの種が自性《常にそれをそれであり続けさせているもの》を持つとすれば、スイカの種はいつまでたってもスイカの種であり続けることになってしまいます。もし、スイカの種がいつまでもスイカの種であり続けるとしたら、スイカの種からスイカの芽が生じることはありません。したがって、自性《常にそれをそれであり続けさせているもの》を持つスイカの種からみれば、スイカの芽を生じるということが不可能となります。
もちろん、スイカの種の中にスイカの芽は入っていません。スイカの種をどんなに分解しても、スイカの芽は見つかりません。もし、スイカの種の中にスイカの芽が含まれていたとしても、仮にそうであるなら、スイカの種はスイカの種のままで既にスイカの芽でもあることになってしまい、「スイカの種からスイカの芽が生じる」ということが不可能となります。いずれにせよ、スイカの種からスイカの芽が生じることは、不可能となります。
それでも私たちは、スイカの種からスイカの芽が生じる現象を目にします。ところが、その理由はみつかりません。つまり、スイカの種にとって、スイカの芽が生じるということが、理由がなくても生じてしまうことになります。ということは、スイカの芽が生じる理由が存在しない、どんなものからでもスイカの芽が生じるかもしれない、ということが可能となってしまうのです。
そもそも、どうしてこのようなヘンテコなことになってしまったかというと、スイカの種が自性《常にそれをそれであり続けさせているもの》を持つ、と考えたからなのです。つまり、スイカの種が自性《常にそれをそれであり続けさせているもの》を持つものとしてある、と考えることをやめなければいけないのです。
つまり、スイカの種は、自性《常にそれをそれであり続けさせているもの》を持たないのです。
スイカの種が自性《常にそれをそれであり続けさせているもの》を持たないということになると、「常にスイカの種をスイカの種であり続けさせているもの」はないことになります。つまり、スイカの種は、スイカの種でいられなくなります。もちろん、それは、スイカの種が、スイカの種でないしかるべき何物かとして存在しはじめる、ということではありません。スイカの種がスイカの種でないものとしてあるのならば、それは、スイカの種でないものが、スイカの種でないしかるべきものとして自性《常にそれをそれであり続けさせているもの》を持つ、ということになってしまいます。
したがって、自性《常にそれをそれであり続けさせているもの》を持たないとき、スイカの種はスイカの種であることはないし、スイカの種がスイカの種でないものであるのでもないのです。
自性《常にそれをそれであり続けさせているもの》を持たない、ということは、しかるべき何かであることも、何かでないこともできない、ということなのです。
まさに、そうした状態を表わす言葉が、「空」ということなのです。
以上のロジックを、どのように感じられたでしょうか。
「ばかばかしい」「単なる言葉の遊び」「議論をもてあそんでいるだけ」と感じられた方は、多いかもしれません。ところが、普段、私たちが何気なく使っている言葉を厳密に突き詰めていくと、このような結論に至ってしまう、というのが、大乗仏教中観派の祖であるインドの哲人、日本では八宗の祖とたたえられるナーガールジュナ(龍樹)の主張なのです。
私たちは、普段、何気なく「スイカの種から芽が生じた」と言っていますが、言葉を一つひとつ厳密に定義しながらこのような表現をしているわけではありません。単純に、目にした現象を言葉にすると「スイカの種から芽が生じた」という表現になる、ということでしょう。ところが、目の前のスイカを「ある(=自性を持つ、実体がある)」と定義すると、いろいろとつじつまがあわなくなり、ヘンテコなことになってしまう、というのが、ナーガールジュナ(龍樹)の主張です。
ナーガールジュナ(龍樹)に言わせれば、ものごとについて、「何かから何かが生じる」と考えている私たちの方こそが、真実をとらえていない、単なる言葉遊びをしている、議論をもてあそんでいるだけ(=仏教用語で「戯論」(けろん)と漢訳されます)、というわけです。
空とは、瞑想による覚体験を通じて感得されるものであり、言葉で表現することはできない、言葉を超越した世界である、といわれるのは、こういうことなのです。