1-6 不生不滅とはどういう意味か(前編)
般若心経に出てくる「不生不滅 不垢不浄 不増不減」とは、いったい、どういう意味なのでしょうか? 以下、代表的な訳をみてみましょう。
(1)中村元・紀野一義 般若心経・金剛般若経 (1960). 岩波書店 pp.13
生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたというものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
(2)宮坂宥洪 新釈般若心経 (2004). 角川文庫 pp.114
生じたというものでなく、滅したというものでなく、汚れたものでなく、汚れを離れたものでもなく、足りなくなることなく、満たされることもない。
(3)長澤弘隆 般若心経梵文和訳ノート エンサイクロメディア空海
生じるのでもなく(不生)、滅するのでもなく(不滅)、垢れているのでもなく(不垢)、無垢なのでもなく(不浄)、減るのでもなく(不減)、満ちるのでもない(不増)。
(4)佐々木閑 NHK100分DE名著ブックス般若心経 (2014). NHKブックス pp.47
これらは起こってくることもなく、生滅することもない。汚れることもなく、清らかになることもない。減ることもなく、一杯になることもない。
(5)松原泰道 最後の般若心経講義 (1995). pp.109
「生ぜず、滅せず」とは、つまり「生まれもしなければ死にもしない」。ちょっとわかりにくいのですが、先に触れたように「不」という否定は、昇華の意味です。「生まれる」ということは、ただ物理的に生まれるというだけではない。生まれることにとらわれずに、徹底的に考えていくこと、そこに「支えられたもの」「恩」というものを感じることができるのです。
(6)山田無文 般若心経 (1986). 禅文化研究所 pp.105
空は言葉を換えるならば、絶対であり、永遠であり、実存ということであります。そこで、一切の現実世界の現象的差別の存在は、そのまま絶対であり実存であって、その一つひとつが不生不滅、不垢不浄、不増不減であると示されるのです。
(1)から(4)まで、まるで当然のことのように、「生ぜず、滅せず」と書き下し文そのままの形で訳し終えていますが、果たして、これを読んだ人たちはこのような訳で本当に理解できているのでしょうか。 また、(5)から(6)の方は、あまりに訳者の思いが入りすぎており、本来の意味とかけ離れてしまってはいないか、逆に心配になってしまいます。
そもそも、この世界は諸行無常で、「一切は常に変化し、永遠不変のものはない」はずではなかったのか。 それがなぜ、「不生不滅」といえるのか? 普通に考えれば、「諸行無常」と「不生不滅」とが両立するとは、とても思えません。
わずか262文字から成る般若心経ですが、このなかには、『大般若経』(玄奘訳で600巻)のエッセンスと、真言による悟りへの指南が凝縮されて述べられているといわれています。般若心経は玄奘が西暦649年に漢訳したものです。漢訳本は全部で7種残されており、そのうち日本には5種が伝わっておりますが、普通、「般若心経」といえば玄奘訳を指します。また、その元となった原典はサンスクリット語で書かれ、3世紀ごろにはインドで成立していたといわれています。玄奘訳がいつ日本に伝わったのかは必ずしも明確ではありませんが、唐に渡って玄奘に師事し660年に帰国した道昭が持ち帰ったのではないかといわれています。以降、日本では、誦えるだけでも功徳のある経典として、千数百年にわたって人々の信仰の対象とされてきました。
現代においても、実に多くの解説書や研究書が出版されていますが、その内容は、必ずしも一様ではありません。訳文に加え、訳者独自の仏教理解や自身の信条とがないまぜになって、むしろ自らの経験に基づく人生訓や処世術を説くのに熱心な解説書も少なくありません。宗派を超えて出家僧から在家信者まで幅広く誦えられてきた般若心経ですから、人々の救済を目指して、或いは人々の理解が進むようにと、日本で独自の解釈や講釈がなされてきたとしても、千年を超える歴史を考えれば、ある意味当然なのかもしれません。しかも、日本では、江戸時代に、文字の読めない庶民のために、文字の音を絵で現わした「絵心経」などもくつられたほどです。
再び、先ほどの疑問に戻りますが、仏教の根本思想ともいえる「諸行無常」と、般若心経に出てくる(これも空の根本思想ですが)「不生不滅」とは、果たして両立するのでしょうか? 現代の日本人好みに解釈し直された意味ではなくて、西暦3~5百年頃にインドの大乗仏教徒たちが説いた「Prajna-paramita-hridayam(プラジューニャ・パーラミタ・フリダヤ)」(=般若心経)の意味するものは何であったのか、考えてみたいのです。