1-7 不生不滅とはどういう意味か(後編)
般若心経では、「諸法空相 不生不滅」とされ、諸法(=すべての存在するもの)は、空(=《常にそれをそれであり続けさせているもの》を欠いている)という特性を有していることから、生ずることも滅することもない、と説かれています。もし、般若心経に記されているとおり、生起することも消滅することも存在しないとすると、諸行は無常でありこの世に永遠不変なるものは存在せず何事も生死流転するものだとする仏教の根本と矛盾することになるのではないでしょうか。
以下、この点について、考えてみたいと思います。
空を理解するには、「自性」のほかに、もうひとつ、「縁起」を理解する必要があります。
縁起とは仏教の基本思想であり、部派仏教が説く有為法の縁起説では、「この世の現象はすべて因(原因)と縁(条件)が働いて結果が生じる」とされました。例えば、「スイカの種から芽がでる」という現象は、「スイカの種が因(原因)となって、土や水や温度が縁(条件)となって、芽(結果)が生じる」というわけです。現代の私たちにとっても、特に違和感はありません。縁起という言葉自体は現代日本語の用法とは若干の相違はあるものの、「スイカの種が原因となって、他の条件とも相まって、芽という結果が生じる」というロジックは、私たちが認識しているこの世界の現象そのものです。
ところが、ここでも、大乗仏教は、驚愕すべき反論を提示します。
「空七十論」 ナーガールジュナ
あらゆるものの実体は、原因(因)であれ、条件(縁)であれ、(原因と条件との)集合であれ、どこにも存在しないから、空である。〔3〕
「あるもの(有)」は、(現に)あるのであるから生起することはない。「ないもの(無)」は(現に)ないのであるから、(生起することは)ない。生起することがないから、存続することも消滅することもない。〔4〕
つまり、スイカの種は現に有るのだから、現に有るものから結果(芽)が生起することはありません。スイカの種が無ければ、無いものは現に無いのだから結果(芽)が生起することはありません。有りかつ無いものは、相反するから同一の結果を生起することはありません。いずれにせよ、スイカの種から芽が生起することは不可能となります。したがって、生起することがないから、消滅することもありません。
もし、自性《常にそれをそれであり続けさせているもの》を持つとするならば、こういうヘンテコなことになってしまうだろう、というわけです。
また、こうもいいます。たとえ、実体として有であると承認したとしても、いまだ生起していないスイカの種は、《常にそれをそれであり続けさせるもの》を持つがゆえに、生起をうける(芽が出る)ことはありません。また、すでに生起したものであるとすれば、《常にそれをそれであり続けさせるもの》を持つがゆえに、スイカの種が原因で生起したということはできません。もちろん、すでに生起したものから新たに生起することもありません。
大乗仏教は、「空」=「無自性(自性を欠いていること)」=「縁起」を説いたといわれています。しかも、この場合の縁起とは、「相依性(そうえしょう)」の意味であるとされます。簡単に言えば、相互依存ということです。つまり、部派仏教においては、ものは縁によって起こる(=これが原因となってこの結果が起きる)と時間的生起関係を意味していた「縁起」が、大乗仏教においては、短と長が相依って成立している(=短があるから長がある)というような、論理的相関関係を意味するものとされたのです。
大乗仏教が説く相依性は、しばしば、父と子の関係によって説明されます。自然現象としては、父があって子が生まれるのですから、父が原因で子が結果であると考えます。子から父が生まれることはありません。ところが、存在のあり方としてこの関係を考えると、子が生まれる前は父ではありえません。子が生まれることに依って始めて父といえるのです。つまり、父と子とは相依って成立しているのですから、子なくして父とは呼べないし、父なくして子とは呼べないのです。しかも、子が生じる前は父とは呼べないわけですから、父から子が生じる、とはいえない、というわけです。
般若心経における「不垢不浄(垢つかず、浄からず)」もまた、相依性の関係です。不垢を離れた不浄はない、汚れに依存せずに清浄さは存在しない、汚れの存在しないところに清浄さを定義することはできない、汚れに依って清浄さを説く、ということです。インド古来の慣習では最高の境地を清浄無垢と形容しますが、本来、そのような実体は存在せず、空相においては、清浄であるとも不浄であるともいえない、というわけです。
また、「不増不減(増さず、減らず)」も同様です。不増も不減も、あり方という意味では、どちらか一方だけで独立して存在することはできません。不増と不減は相依って成立しています。そして、空相においては、(般若の智慧に依ってどんなにたくさんの菩薩が成道しようとも般若の智慧自体は)減ることもなければ増えることもない、というわけです。
※漢訳では慣用的な言い回しを意識してか不増不減と訳していますが、もともとのサンスクリット原典で不減不増となっているのは、このような意味だからです。
部派仏教の縁起と、大乗仏教の縁起との違いについては、こういう説明も可能です。
時間的生起関係を表わす命題[a]を考えます。
[a ]酒の飲みすぎによって、気分が悪くなる。
これを、次のように言い換えることはできません。
[a']気分が悪くならないことによって、酒の飲みすぎにならない。
一方、論理的相関関係を表わす命題[b]を考えます。
[b ]もし酒を飲みすぎるならば、気分が悪くるなる。
今度は、次のような言い換えが可能となります。
[b']もし気分が悪くならないならば、酒を飲みすぎてはいない。
ナーガールジュナ(龍樹)をはじめとする当時の大乗仏教徒たちは、単に部派仏教が主張する自性《常にそれをそれであり続けさせているもの》を否定しただけでなく、ものは相互の依存関係に依って成立しているのであって、もし、自性を認めれば釈迦が説いた縁起が成立しなくなる、ということを主張したのです。
彼らが説いたのは、「無自性(自性を欠いている)」⇒「縁起」⇒「空」 ということなのです。
最後に、結論です。
部派仏教においては、自性《常にそれをそれであり続けさせているもの》を有する法(=ダルマ)が、因(原因)と縁(条件)の助けを借りて生起する、といわれます。ところが、もしもそのような自性が実在するのならば、その自性は、他に依ってつくられたものとなってしまい、他に依存していることになります。他に依存しているものは、自性《常にそれをそれであり続けさせているもの》とはいえません。ですから、自性が実在するとしたならば、結果は生起できません。同様に、消滅もできません。つまり、不空なる結果は、「不生不滅」というわけです。
一方、自性《常にそれをそれであり続けさせているもの》が実在しない場合、ものはそれ自体として存在することができないので、結果を生じることも、消滅することもありません。つまり、空なる結果は、「不生不滅」というわけです。
いずれも、「不生不滅」と表現できますが、その理由はまったく異なります。《常にそれをそれであり続けさせているもの》にとっては、生起したり消滅したりすることは不可能です。一方、《常にそれをそれであり続けさせているもの》というあり方をしないならば、生起したり消滅したりするものが、そもそも存在しません。
これが、般若心経における「不生不滅」の意味です。
まさに、そうした状態を表わす言葉が、「空」ということなのです。