Ayat-Origami

1-8 縁起とは何か(前編)

ナーガールジュナ(龍樹)が説いた縁起について、もう少し説明します。

「空七十論」 ナーガールジュナ

名称であらわされる事物(法)はすべて涅槃と同じく実体(自性)が空であるから。〔2〕

これは、驚くべき言明です。
この世のすべてものには実体がない、といわれても、まだ、あまり実感はわいてきません。「そんなものかなあ」程度の感想だと思います。ところが、「名称があるものはすべて実体がない」といわれると、私たちのなかで、何かがゆらぎます。急に、私たちの常識をえぐられる感じがします。さすがに、「えっ、いま何て言ったの?」と、聞き返したくなってしまいます。

ところで、物質とは、何でしょうか。私たちは、普段、見たり触れたりできて質量があるものを物質といったりします。眼鏡や携帯電話や自転車など、スイカやトマトやりんごなど、石や砂や土などはすべて、私たちは物質と呼んでいます。
それでは、時計は物質でしょうか。長針や短針があって文字盤があって、モーターがあって歯車があって、それ以外にもたくさんの部品があつまって、針の位置で時刻を表示する機能を持っている集合体があったとします。私たちは、この機能に対して、「時計」という名称をつけているのです。この時計から針を取ってしまったら、時計の機能は無くなり、時計とは呼べなくなります。ところが、針をつけたら、再び時計となります。同じ針である必要はありません。どこか他の所から針の代わりになる同じような細長いものを持って来てそれを付けたとしても、再び、時計が現われます。
つまり、もとから時計という物質があったわけではなく、ある機能に対して、私たちが勝手に付けた名称が「時計」なのです。「時計」という独立した固有の実体があったわけではありません。「時計」とは、極めて概念的なものなのです。針も同じです。鉄やステンレスで出来ている細長い小さな塊を、文字盤の数字を指し示す「針」として、私たちが名称をつけているのです。「針」もまた、概念なのです。
それでは、針を構成している鉄やステンレスは、物質でしょうか。もちろん、私たちは、当然に物質であると思っています。でも、ちょっと待ってください。鉄は鉄の原子の集まりです。ところが、鉄の原子は、その原子を構成する原子核(陽子26個+中性子30個)と電子(26個)の集まりにすぎません。その集まった性質に対して、私たちが勝手に付けた名称が鉄なのです。鉄という固有の実体がもとからあったわけではありません。「鉄」もまた、概念なのです。
さらに続きます。陽子や中性子さえも、クウォークの集まりにすぎません。陽子や中性子という独立した固有の実体があるわけではありません。どこまでいっても、私たちが認識できているものはすべて、その集まった性質に対して私たちが勝手に付けた名称であり、概念にすぎません。どこまでいっても、独立した固有の実体があるわけではありません。
もし、鉄を物質と呼ぶのであれば、時計も針も電子も陽子も中性子もクウォークも物質になりますが、いずれも、何らかの独立した固有の実体を指して物質といっていることにはなりません。国や世界や赤や青と同じように、単に概念を指す名称にすぎません。つまり、鉄は物質であるが国や世界は物質ではない、という言い方には何の意味もないのです。

物質とは何か、それは、国や世界や赤や青と同じ、私たちが概念に対して勝手につけた名称、なのです。
そして、名称であらわされるものはすべて、空(=独立した固有の実体はない)、なのです。
さらには、物質とは、仏教では色蘊(しきうん)と呼ばれるものですから、つまりこのような状態をさして、「色即是空」、というわけです。

[追記]人間が認識しようがしまいが物質としてモノははじめから存在しているはず、という反論があるかもしれません。しかし、それは本当でしょうか。現代の物理学は、物質の本体を求めてモノを究極まで細分化していった果てに、何らかの確たる存在を確かめることはできたのでしょうか。最新の素粒子物理学では、6種類のクウォークが物質の究極的な最小の構成単位と考えられていますが、その性質は、粒子であったり波であったりします。観測するまではその位置を確率でしかあらわすことができません。それは、観測する側の精度の問題ではなく、観測する前の素粒子はそもそも確率的に同時に存在している、どこに存在するかは確率で予測することしかできない、といわれます。観測することによって、はじめて確率が収束する(場所が特定できる)らしいのです。これを、コペンハーゲン解釈といいます。これは、空の観点からも、とても興味深い説明です。さらに衝撃的な多世界解釈については、また別の機会に・・・。素粒子の世界は、2千年前に発見された空観と、とても親和性が高いのです。



続けます。
ものに実体が無いのは分かった(一旦はそういうことにしたうえで)、「それで?」「どうしたいの?」「結局、何がいいたいの?」というのが、普通の人の感想かもしれません。
仏教において克服すべき対象は、「無明(むみょう)」(この世の苦を成立させている条件や原因に対する無知)であり、目指すべき対象は「悟り」(無知からの開放)です。そのための方法論が、「縁起(=相依性)」に基づくこの世の理解なのです。

「空七十論」 ナーガールジュナ

実体として「存在」はなんらあるのではなく、この世には「無存在」もあるのではない。原因と条件とから生起した「存在」や「無存在」は空である。〔67〕
存在はすべて実体が空であるから、存在の依存関係による生起(縁起)を無比なる如来は教示された。〔68〕
清らかな心を持って探求に専心し、説かれたいかなる事物にも固執せず、この道理を知って(真理)に従い、(それを)めざすならば、その人は「存在」と「無存在」とを捨てて寂静となる。〔72〕
つまり、見渡す限り、この世のありとあらゆるものは相互に依存する関係で成り立っており、独立した固有の実体は存在しない。すべては無常であり、何ひとつ、永遠不変なものなどない。「物質」や「苦しみ」や「悲しみ」についても、これらは真実の姿ではなく、人間が勝手に作り上げた思い込みにすぎない。私たちは、そのことを知ることによって無明を破ることができる、というわけです。

ところで、物質や国や世界や赤や青など、私たちが認識している対象(認識対象)が空であるのと同じように、認識する側(認識方法)も空なのです。
ナーガールジュナは、「認識方法と認識対象との2つは混じり合っていて区別できない」といいます。つまり、対象があるときにはじめて認識方法は認識方法となるのであって、逆に、認識方法があってこそ認識対象は対象となるのです。ここでも、ナーガールジュナは、「あらかじめ対象(原因)があり、その後で認識(結果)が生じる」という時間生起的な関係は認めません。ナーガールジュナが主張するのはあくまで相依性であり、認識対象によって認識方法は成立しており、認識方法によって認識対象は成立している、ということです。
もし自らで認識が成立するとするならば、認識の対象を必要とせずに認識が成立してしまうことになります。反対に、認識するのに他のものを必要とするならば、自らで成立するとはいえません。

例えば、「桜の花を美しいと感じること」(受)も、「桜をイメージすること」(相)も、「桜の枝を瓶にさしてみようと思い巡らすこと」(行)も、「桜を桜と認識すること」(識)も、これらの認識方法はすべて、その認識の対象となる「桜」とともに成立しているのです。
そして、相互依存関係で成立しているこれらの認識方法はすべて、空(=独立した固有の実体はない)、なのです。
これらの認識方法は、仏教では、それぞれ、受蘊(じゅうん)・相蘊(そううん)・行蘊(ぎょううん)・識蘊(しきうん)と呼ばれるものですから、つまりこのような状態をさして、「受想行識 亦復如是」(受想行識もまたかくの如し)、というわけです。