1-9 縁起とは何か(後編)
ナーガールジュナ(龍樹)が説いた縁起について、さらに説明を続けます。
否定の矛先は、論理にも、ことば自体にも向けられます。まさに、すべては空、というわけです。
「ヴァイダルヤ論」ナーガールジュナ
(決定の考察)
実体・存在・単一性などには別異性も同一性もその両者としての性質もないから、決定というものはありえない。〔50〕
これだけだと何を言っているのかよくわかりませんが、「壺(つぼ)」という存在を例に説明します。
壺というモノ(=実体)と、壺の数が一つだとか、形が丸いとか、色が赤いだとかいう性質(=属性)とは、同一であるか、別々であるかのどちらかであるはずです。もし、実体とその属性とが同一のものであると認める(「壺」と「一つ」と「丸い」と「赤い」を同一と認める)ならば、その壺が「赤い」というだけで、同時に、「一つ」と「丸い」という属性が備わってしまうことになってしまいます。逆に、実体とその属性とが別々のものであるならば、「一つで丸くて赤い壺」は存在しなくなってしまいます。つまり、モノとその属性によってそれを特定する(=決定する)ことは不可能、というわけです。
「ヴァイダルヤ論」ナーガールジュナ
(論争の考察)
論争は存在しない。ことばとその対象とが存在しないから。〔51〕
もし、壺という「ことば」と、壺という「モノ」とが同一であるならば、壺という「ことば」を発した瞬間に、口のなかは壺という「モノ」でいっぱいになってしまうはずです。或いは、もし、火といえば口の中は火で焼かれてしまう(というヘンテコな)ことになってしまいます(が、実際はそんなことにはなりません)。逆に、別々のものであれば、壺という「ことば」を発したとしても、壺という「モノ」は確認できない(というヘンテコな)ことになってしまいます。つまり、ことばと対象とは同一にも別々にも存在しないから、論争になりようがない、というわけです。
大乗仏教の論争の対象は、説一切有部に代表される、一切のもの(=法)を細分化したうえでそれぞれの範疇には永続的な固有の実体が存在するというアビダルマ哲学でした。また、時には、仏教以外のサーンキヤ学派やニヤーヤ学派などのバラモン哲学を直接批判することもありました。アビダルマ哲学やバラモン哲学に共通する特徴は、いずれも、概念をさまざまに分類・区別したうえでそれを実体視していることです。
ナーガールジュナが批判したのは、まさに、この点です。認識と認識方法、ことばとその対象、聖なるものと俗なるもの、輪廻と涅槃などは区別されないものであり、区別されないということは、その存在において自性を欠いているということです。つまり、認識と認識方法、ことばとその対象、聖なるものと俗なるもの、輪廻と涅槃などの区別は、存在(モノ)そのものにあるのではなく、それを見る人間の心とことばによってつくられているものなのです。ことばを離れ、区別する心を離れ、一切のものは相互に依存しながら縁起していることを知ることが、空を知ることなのです。
人は、ことばに囚われ、区別することに執着し、この世の苦しみや悲しみを実体視することによって、煩悩の闇から抜け出せずにいます。ここに、人々の迷いの根拠があり根源があるのです。この、煩悩が発生するメカニズムを明らかにし、無明の闇から人々を救うことが、大乗仏教の目的なのです。そのような確信があればこそ、ナーガールジュナは、一見、詭弁とも強弁ともとられかねない一千万語を費やして、ことばによる理解のあやうさを証明してみせたのです。
まさに、
依般若波羅蜜多故 (般若波羅蜜多に依るが故に)
心無罣礙 (心に妨げとなるものが無く)
無罣礙故 (妨げとなるのもが無きが故に)
無有恐怖 (恐怖があること無く)
遠離一切顛倒夢想 (一切の誤った考えから離れ)
究竟涅槃 (涅槃の境地に達することができる)
というわけです。
ところで、私たちは、「色即是空 空即是色」といわれたときに、ちょっとした違和感を覚えます。
それは、「トマトは野菜であり、野菜はトマトである」といわれたときに感じる違和感と、同じものです。
確かにトマトは野菜ですが、トマト以外にも、ナスやキュウリやカボチャなど、ほかにも野菜はたくさんあります。よって、私たちは、「トマトは野菜である」ということはできますが、「野菜はトマトである」といい切るわけにはいかないのです。ところが、般若心経では、ほかにも受・想・行・識があるはずなのに、「空は色なり」といい切ってしまっています。これはいったい、どういうことなのでしょうか。
論理は、主語と述語でできています。「○○は野菜である」というときに、「○○」に自性(=常にそれをそれであり続けさせているもの)を認めないのが、ナーガールジュナの立場です。つまり、自性が無いということは、「○○」が「○○」である根拠を持っていないということですから、区別のしようがない、何ものでもない、ということです。私たちが「野菜である」と思っているモノは、実は、何ものでもない、つまり、「空」というわけです。
トマトも何ものでもない、ナスも何ものでもない、キュウリも何ものでもない、カボチャも何ものでもない。そして、何ものでもないモノは即ち空である。逆に、空は即ち何ものでもないモノである。だから、空は即ち「(私たちがトマトと思っているが実は)何ものでもない」モノである。空は即ち「(私たちがナスと思っているが実は)何ものでもない」モノである。空は即ち「(私たちがキュウリと思っているが実は)何ものでもない」モノである。空は即ち「(私たちがカボチャと思っているが実は)何ものでもない」モノである。
「色即是空」⇔「空即是色」とは、そういう意味だったのです。しかも、大乗仏教が説く縁起は相依性ですから、「色即是空」と「空即是色」とは相互依存的に成立しており、どうしても、「色はこれ空なり」「空はこれ色なり」とセットにする必要があったのです。
そしてここに、述語によって示されるすべての主語は何ものでもない(何ものとも区別することができない)、ということが宣言されたのです。もともと何ものでもないモノが、どうして、(苦しみや悲しみなどの)述語を持たなければならないのか。すべては、私たちがつくりだしたまぼろしなのです。私たちのこだわりが、そもそも存在しないまぼろしをつくりあげ、実体があるかのごとくみなしてしまうのです。
色即是空 空即是色 (色は即ちこれ空なり、空は即ちこれ色なり)
受想行識 亦復如是 (受想行識もまたかくの如し)
というわけです。