Ayat-Origami

1-10 中道とはいかなるものか

仏教にける中道とは、有や無など、2つのものの対立を離れていることを意味します。それは、2つのものの中間ということではなく、一方的な見解に偏ることなく、両極端から離れ、矛盾対立を克服するということです。

「サンユッタ・ニカーヤ(雑阿含経)」

カッチャーヤナよ。この世間の人々の多くは、二つの立場に依拠している。それはすなわち有と無とである。もしも人が正しい智慧をもって、世界(世の人々)のあらわれ出ることを如実に観ずるならば、世間において無はありえない。また人が正しい智慧をもって世間の消滅を如実に観ずるならば、世間において有はありえない。
カッチャーヤナよ。あらゆるものが有るというならば、これは一つの極端の説である。あらゆるものが無いというならば、これも第二の極端の説である。
人格を完成した人は、この両極端の説に近づかないで、中道にて法を説くのである。

また、中観派の祖といわれるナーガールジュナ(龍樹)によれば、縁起と空と中道とは同一のものであるとされています。

「中論」ナーガールジュナ

〈有り〉というのは常住に執着する偏見であり、〈無し〉というのは断滅を執する偏見である。故に賢者は〈有るということ〉と〈無しということ〉に執着してはならない。(15-10)
どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。(24-18)
自性《常にそれをそれであり続けさせているもの》を欠いているものは不生であり、不生なるものはそれ自体として「有る」ということはできなくなります。同様に、不生なるものは「無くなる」ということもできません。不生と空とは同義ですから、空とは、有や無という二辺から離れていることになります。よって、空とは両極端を離れた中道である、というわけです。
中論において論じられている代表的な両極端は、以下のとおり、滅・生、断・常、一・異、来・出の八つです。

「中論」ナーガールジュナ

〔宇宙においては〕何ものも消滅することなく(不滅)、何ものもあらたに生ずることなく(不生)、何ものも終末あることなく(不断)、何ものも恒常であることなく(不常)、何ものもそれ自身と同一であることなく(不一義)、何ものもそれ自身において分かたれた別もものであることはなく(不異義)、何ものも〔われらに向かって〕来ることもなく(不来)、〔われらから〕去ることもない(不出)、戯論(けろん、形而上学的論議)の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちでもっとも勝れた人として敬礼(きょうらい)す。 (帰敬序)

それでは、以下、「中論」の代名詞ともいえる「去るものは去らず」を題材にして、少しだけ、考えてみましょう。

「中論」ナーガールジュナ

まず、既に去ったもの(已去/いこ)は、去らない。また、未だ去らないもの(未去)も去らない。さらに、〈すでに去ったもの〉と〈未だ去らないもの〉とを離れた〈現在去りつつあるもの〉(去時)も去らない。(2-1)
こちら側から遠くへ移動するモノについて、私たちは、次のA,B,Cの3種類のモノを想定することができます。
Aは、既に去ったものである・・・・・〈已去〉
Bは、未だ去らないものである・・・・〈未去〉
Cは、現在去りつつあるものである・・〈去時〉
そして、ナーガールジュナは、これらA,B,Cについて、驚くべきことを述べるのです。
A(=既に去ったもの)は、去らない
・・・Aは既に去られたものであり、既に去られたものが、更に去られるということはありません。
B(=未だ去らないもの)は、去らない
・・・Bは去る作用が未だ生じていない状態であり、去るという作用を持っていないから、「未だ去らない」ということはできません。
C(=現在去りつつあるもの)は、去らない
・・・Cは、人々は現在去りつつある「時」が存在しているかのように思っていますが、実は「現在去りつつある」状態は、厳密には、「既に去ったもの」か「未だ去っていないもの」か、どちらかに含められるはずです。よって、そのどちらであっても、「去らない」という結論になります。
したがって、AとBとCはすべて「去らない」ものとなり、区別がなくなります。

それでは、いったい、AやBやCは、何ものなのでしょうか。それは、「既に去ったものである」とか、「未だ去らないものである」とか、「現在去ろうとしているものである」というような述語では区別できないもの、ということになります。述語で区別することができないような主語は、何ものであることもできません。
述語が付されたいかなる主語も、他の主語と区別できない世界が、空であり、中道なのです。
去るものに限らず、いかなるものであっても、同じように、
「生じるものは生じない」「滅するものは滅しない」・・・・・・・・・・・不生不滅
「増えるものは増えない」「減るものは減らない」・・・・・・・・・・・・不増不減
「垢つくものは垢つかない」「浄らかとなるものは浄らかとならない」・・・不垢不浄
というわけです。
ナーガールジュナは、何も、この世の森羅万象を解明しようとしているわけではありません。ナーガールジュナが言いたいことは、言葉で定義されたいかなるモノも、人間がつくりだしたマボロシであり、それが、すべての執着の原因となっている、ということです。「苦と楽」も、「悲と喜」も、「自と他」も、本来は区別できないものであり、私たちは、これら二辺を離れた中道を目指すべきなのです。


とりわけとくに、「自他の区別をしない」こと(自己の喜びを他人の喜びとすること、他人の苦しみを自己の苦しみとすること)、これが、大乗仏教の思想を貫く核心です。
「自」と「他」はお互い独立無関係に存在しているのではありません。「自」に依って「他」が存在し、「他」に依って「自」が存在するのです。つまり、「他人」を意識したときに初めて「自己」が表れ、「自己」を意識したときに初めて「他人」が表れるのです。あたかも、短があるときに長があるがごとく、です。
普通、私たちは、この世に生をうけ、親・兄弟・祖父母・小中高校の友達・大学の友人・会社の同僚や上司・世間の人々とのかかわりを通じ、様々な経験を積みながら、少しずつ、「自」と「他」の関係を学習していきます。大人になれば否応なく、大小さまざまなコミュニティーに属し、それぞれの立場に応じた異なる顔を使い分けなければならなくなります。私たちは、社会生活の中で、こうした振る舞いを身につけていくことが、人間の成長であると考えています。
ところが、仏教においては、このような自他の区別を学習する成長の過程そのものが、執着と煩悩を生むメカニズムなのです。
つまり、仏教において無我になるとは、世間の人々・会社の同僚や上司・大学の友人・小中高校の友達・祖父母・兄弟・親との間に築かれた自他の皮を、一枚また一枚と、これまでの人生を遡りながら、たまねぎの皮をむくように、丁寧に剥いでいくことなのです。たまねぎの皮を最後までむいたあとに残るものは、何もありません。それが、無我という状態です。
瞑想によって、この世の執着から離れて寂滅の境地に入る過程は、実は、自他の区別や言葉を学習する前の、生まれたばかりの状態にひき戻ることなのです。
大乗仏教が目指す縁起・中道・空とは、自他の区別がなく(=縁起・中道)、言葉を超えた世界(=空)であり、この世に生まれたばかりの、自我が生じる前の、無垢な赤ん坊の状態のことなのです。(「無垢」とはまさに、煩悩から離れて穢れがないことをあらわす仏教用語です)